2007年9月9日日曜日

瀬島龍三氏への韓国マスコミ追悼文




• はじめに

瀬島龍三氏は、陸軍士官学校、陸軍大学のいずれも主席で卒業し、帝国陸軍始まって依頼の頭脳と言われた人であり、戦時中は大本営参謀として日米開戦命令書をその手で書き、約1500の命令書のほぼ全てに関わり、そして述べ600万人の兵力を動かしたと言われている。

戦後は11年間に渡る抑留生活の後、設立されたばかりの自衛隊入りを断り伊藤忠に入社、一介の繊維専門商社を 日本を代表する総合商社へ育て上げた。伊藤忠では社長から、商売はしなくてもよい、明日の商社の姿を考えてくれと言われたという。

多くの人々が死んだ負けた戦争の参謀という重責を務め、またシベリアでは6万人が死んでいくのを目撃した。こういった経歴から瀬島氏は、私欲や自分を捨て、常に国家や日本国民の幸せのみ追求し、歩まれた人生であったように思われる。

• 韓国と瀬島龍三氏

氏は又、「東アジアの安定は韓半島の安定からはじまり、そのためには韓日関係が安定しなければならない」という考えを持っていた。この為、韓国にも多くの手助けをしている。

氏は朴正煕大統領とは、陸士一期後輩の関係で、朴正煕大統領は良く瀬島氏に相談していたそうだ。現在の韓国経済の形の基礎を作ったのは朴大統領である以上、瀬島氏が韓国経済へ及ぼした影響は、恐らく日本人の中でも最大級のものと言えるのかもしれない。

昔韓国になぜ純日本的と言われる総合商社が存在するのか不思議だったかが、その答えが瀬島氏と韓国の結びつきにあるようだ。また当時の浦項製鉄設立にも尽力した模様だ。このように韓国の経済開発・政策にも深くかかわっている。他には全斗煥、盧泰愚元大統領、朴泰俊前浦項製鉄(現ポスコ)会長、故・李秉喆サムスン・グループ名誉会長などの錚々たるメンバーと人脈があることから、瀬島氏の色々な知恵が、韓国にも注がれている事が想像される。戦後の日韓の形を作った一人と言えるのかもしれない。

• 韓国でも高名な瀬島氏

韓国の新聞からも、2007年9月4日に亡くなられた瀬島氏への追悼文を複数出している。これらは韓国側から見たひとつの日本人像・日本像をも示しているとも思われる。下記にめぼしいものを集めてみた。

瀬島龍三氏が韓国でも高名な理由は、韓国でも翻訳されベストセラーになった山崎豊子氏の小説『不毛地帯』のモデルになっていた事と、当時の朴大統との深い関係、韓国に拾い人脈を持つことなどから、ある程度有名な日本人であるようだ。製鉄(現ポスコ)会長や故・李秉喆サムスン・グループ名誉会長ら、錚々たるメンバーと人脈を持ちながら余り表面には出ず、影の部分の日韓のパイプ役とのイメージもあるようだ。
ただ、朝鮮日報韓国語版には読者から3つのコメントがあり、いずれも抜群の頭脳で戦後日本の発展に貢献したことを称えるものと好意的だった。いずれの記事も、瀬島龍三氏は韓国経済に影響力を及ぼした影のフィクサーといった風もあるが、いずれにの記事も概ね好意的と言えると思う。

• 記事1: 9月5日付け朝鮮日報日本語版

「旧陸軍のエリート参謀」「財界のキーマン」「政界のフィクサー」…。
韓日の密使として活躍した瀬島龍三さん死去
日本復興の「生き証人」日本語版:

旧日本軍の大本営参謀を務め、シベリアに抑留された後、日本の政財界の実力者になり、1980年代に韓日間の密使としても活躍した瀬島龍三・元伊藤忠商事会長が4日、95歳で死去した。

戦後日本復興の「生き証人」といわれる瀬島氏の人生は、韓国でも翻訳されベストセラーになった山崎豊子氏の小説『不毛地帯』のモデルにもなっている。瀬島氏は富山県の貧しい農家に生まれ、1938年に陸軍大学校を首席で卒業、太平洋戦争期間中は旧日本軍の最高司令部である大本営参謀として「ガダルカナル撤収作戦」などほとんどの主要作戦立案にかかわった。関東軍参謀として満州(現:中国東北部)で敗戦を迎えた瀬島氏は、ソ連軍に戦犯として捕らえられ、シベリアで11年間にわたり過酷な強制労働を強いられながらも生き残った。このときの経験がその後の活動の原動力になったといわれている。

56年に帰国した瀬島氏は58年、当時は中小規模の繊維商社だった伊藤忠商事に入社した。業務部長を皮切りに実力を発揮、副社長から副会長を経て入社20年後の78年から10年間、会長を務めた後、2000年6月に特別顧問を最後に引退した。瀬島氏はかつて大本営参謀を務めた経験を生かした組織を会社にも取り入れ、自ら参謀組織の責任者として全世界を舞台に情報を収集、繊維輸出会社にすぎなかった伊藤忠を日本最大の総合商社に押し上げた。瀬島氏はこうした情報力を背景に、67年の中東戦争が6日で終わることや73年のオイルショックを予見し、実際に瀬島氏の言うとおりになった。「昭和の参謀」「財界の参謀総長」と呼ばれるようになったのも、このころからだ。

瀬島氏は韓国の政財界の有力者とも幅広い交流関係を持っていた。朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代から韓国との関係が始まり、韓国に貿易商社制度の導入を勧めるなど、経済開発・政策にも深くかかわった。全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)元大統領をはじめ、朴泰俊(パク・テジュン)前浦項製鉄(現ポスコ)会長や故・李秉喆(イ・ビョンチョル)サムスン・グループ名誉会長ら財界の名士と厚い人脈を築き、何度も韓国を訪れている。83年の中曽根康弘首相(当時)の訪韓では、密使として事前交渉を担当した。この過程で日本は経済協力資金40億ドルを韓国に提供したが、これについても瀬島氏が決定的な役割を果たしたといわれている。

また、瀬島氏は中曽根首相のブレーンとして日本電信電話公社(現NTT)、国鉄(現JR)、日本専売公社(現JT)の民営化を指揮、竹下登、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三の各氏ら歴代日本首相のブレーンも務めた。しかし、日本の帝国主義による戦争に深くかかわった人物が戦後の政界で活動することに対し、批判の声もあった。

冷戦終了直後の90年代には「シベリア抑留時代にソ連軍の手先になったのでは」などの疑惑が取りざたされ、否定的な評価も出た。しかし瀬島氏が戦後の日本を「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に作り上げた超一級の参謀であったことは確かだろう。

東京=鄭権鉉(チョン・グォンヒョン)特派員
朝鮮日報/朝鮮日報JNS

http://www.chosunonline.com/article/20070905000032


• 記事2: 2007年9月5日付け中央日報日本語版

韓日友好のパイプ役、40年余…元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏死去
航空機商戦を描いた山崎豊子氏の小説『不毛地帯』の主人公のル、瀬島龍三・元伊藤忠商事会長が4日未明、東京都内の自宅で死去した。95歳だった。

同氏は、韓日国交正常化以降およそ40年間「密使」として韓日のパイプ役になるなど、両国関係に大きな影響をおよぼした。財界の大物でありながら韓国政界に広い人脈を築き、韓日関係の様々な場面で重要な役割を果たしている。鈴木善幸氏から海部俊樹氏に至るまで歴代首相4人が同氏に諮問を求め、韓国でも朴正煕(パク・ジョンヒ)、盧泰愚(ノ・テウ)氏ら歴代大統領が同氏から国家経営のアイデアを得たりもした。

「東アジアの安定は韓半島の安定からはじまり、そのためには韓日関係が安定しなければならない」というのが、同氏の韓日関係に対する考え方だった。こうした信念のため同氏は、両国首脳の交流にも多大な役割をしている。1983年1月に当時の中曽根康弘首相が電撃訪韓した際、同氏は密使として地ならしをし、翌年9月には全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の訪日を成功させた。

90年に盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の訪日を控えて、天皇陛下の謝罪問題が浮上した当時も、日本政府の特使として青瓦台(チョンワデ、大統領府)を訪れ、水面下の調整を行なった。当時、韓国側の交渉担当者は朴泰俊(パク・テジュン)民主自由党最高委員。

故人と韓国との深い縁は、95年に出版された回想録『幾山河』(扶桑社)でもうかがえる。親密な仲だった朴正煕元大統領について「自分に厳しく、控えながらも、高い見識とリーダーシップを発揮した」と絶賛し、李秉喆(イ・ビョンチョル)元三星(サムスン)会長については「心から敬愛する先輩であり、兄貴であり、教師だった」とし、格別な尊敬心を示した。

全斗煥・盧泰愚元大統領らも、李秉喆会長の仲介で瀬島氏と縁を結んだ。同氏は企業家としても「瀬島神話」を産んだ。38年に陸軍大学校をトップで卒業した後、大本営陸軍参謀として太平洋戦争を中枢部で指揮し、満州で終戦を迎えたが、旧ソ連軍の捕虜となり、11年間シベリアに抑留されたりもした。58年に帰国し、入社した会社が伊藤忠商事。

瀬島氏は企業に「参謀組織」を導入し、全世界から収集した情報を活用、小さな繊維会社だった同社を屈指の大企業に育てるのに中核的役割を果たした。同氏は、こうした情報力を基づき、73年のオイルショックを予測したりもした。富山県松沢村(現小矢部市)出身で、貧しい農民の息子に生まれた。

金東鎬(キム・ドンホ)特派員


• 記事3: 2007年9月5日付け東亜日報(Web訳)

日本の小説「不毛地帯」のモデル瀬島龍三氏死亡

第2次世界大戦当時日本軍参謀で活躍し、戦後には日本財界と政界で影響力を行使して来た (瀬島竜三・写真) 元伊藤忠綜合商社会長が 4日午前他界した。 享年 95歳。

彼は一生情報を集め戦略を立案する「参謀」の役目で活躍し高い評価を受けた。 1938年日本陸軍大学を首席で卒業した後、日本軍大本営の陸軍参謀として戦争指揮の中枢にいた彼は、満洲で敗戦を迎えてソ連軍虜になり 11年間の抑留生活も経験した。

1956年にようやく日本に帰って来たが、 2年後の 46歳の歳に伊藤忠商事の付嘱託社員として入社した。 彼 は伊藤忠に軍の参謀組職を取り入れ、全世界を舞台に収集した情報力を活用し、纎維輸出業者に過ぎなかった伊藤忠を世界的な綜合商社まで発展させた。

入社 4年後常務取締役に就任し、1978年から 10年間会長職を勤め、主に他社との提携合併を主導し、「日々の商売に追い回されるのではなく、戦略的に他社と取引きする技法を取り入れた」との評価を受けた。陸軍参謀本部組職をモデルに、社内でも直属部下を従えて「瀬島機関」と呼ばれた。1973年には新聞の記事のみから世界的なオイルショックを予測して、石油を備蓄するようにした結果、会社に莫大な利益をもたらしもした。

後日回想録で彼は、「敗戦責任者としての反省と 11年間のシベリア抑留で生き残った体験が戦後の活動の原動力になった」と語っている。目標を実現しようとすれば「ナンバー 2」が優れるというのが持論であった。口癖のように。「綺麗ばかりの人間と言うのはありえない」とも言った。

一方彼は中曽根康弘、竹下登前総理など保守政治家のブレーンとして活躍し、「戦争を主導した人物が政治に関与する」と言う批判を受けたりした。

彼は朴正煕、全斗換、盧泰愚前大統領など韓国の軍事政権ともきわめて親しかった。特に朴正煕前大統領は日本陸士 1年先輩だった彼を、非常に尊敬していた事が知られている。1983年中曽根前総理の訪韓当時には密使として、事前整地作業を担当した。日本言論は、歴史家の多くは、「軍部中枢にいた人として、明らかにしなければ成らないことが多かったが、核心部分を言わなぬまま去って残念」という反応を示したと伝えた。波乱万丈であった一生を送った彼は、山崎豊子のベストセラー小説「不毛地帯」の主人公のモデルでもある。

東京=セヨンア特派員

(http://www.donga.com/fbin/output?sfrm=1&n=200709050148)


• 記事4: 連合ニュース(Web訳に加筆)

日本小説「不毛地帯」主人公瀬島龍三氏 他界

(東京=連合ニュース) 太平洋戦争当時日本軍参謀で活躍し、戦後一歩遅れて財界に身を投じ、現在の巨大総合商社伊藤忠を作った瀬島竜三前伊藤忠商事会長が 4日午前 他界した。95歳であった。

1938年陸軍大学を首席卒業した後、日本軍大本営の陸軍参謀として太平洋戦争を軍中枢で指揮した彼は、満洲で敗戦を迎えソ連軍虜になって 11年に及ぶ抑留生活を経験する。その後1956年に帰国し、2年後伊藤忠商事に入社した.

主に航空機分野で働き、1968年専務に昇進。いすず自動車とアメリカ・ジェネラル・モーターズ(GM)との提携を成功させるなどの実績をあげ、副社長、副会長を経って、1978年から会長職を 10年間勤め、2000年 6月特別顧問を最後に引退。

企業に参謀組職を導入し、全世界から収集した情報力を活用し、纎維輸出業社に過ぎなかった伊藤忠を最大規模の綜合商社に発展させた。情報の達人と呼ばれた彼は、1973年に世界的なオイルショックを予測したりもした。

彼は韓国政財界の幅広い人々と交流して来た。また、中曽根康弘前総理のブレーンとして活躍した彼は1983年、中曽根総理の訪韓時の密使として事前整地作業を担当したことが知られている。

貧しい農家の息子に生まれ、日本軍参謀とシベリア抑留生活を経験後、ビジネスマン界に入り、政界・財界で猛烈な活躍した激動の人生は、山崎豊子のベストセラー小説の「不毛地帯」で主人公として描かれてい
る。


• 記事5:MBC(テレビ)ニュース(Web訳に加筆)

韓日の密使 瀬島龍三氏他界

アンカー: 韓国と日本の右派大物との親しい関係を土台に、韓日関係で影響力を行使して来た瀬島龍三さんが他界しました。徹底的な右翼という非難と、それなりに韓日関係に寄与したという評価が出ています。東京ファンウェチン特派員です。

記者: 朴正煕、全斗換、李秉喆、朴泰俊そして中曽根康弘など韓日両国保守の大物たちと親しく、実力者として君臨して来た瀬島龍三氏が昨日他界しました。95歳でした。

日本陸士出身である瀬島龍三氏は、大本営の参謀で戦争に関与し、関東軍参謀として敗戦を迎え、 12年間
シベリアに抑留されました。

帰国した後には伊藤忠商事に入社し会長まで上り詰め、日本軍の参謀組職を取り入れて日本的綜合商社の原型を作りました。

日本陸士出身である朴正煕前大統領を含めた韓国の右派政治達や企業人たちとも深い関係を結び、韓国の経済開発政策にも影響を与えました。

韓日国交正常化交渉過程で密使として調整役目を演じ、全斗換政権当時には中曽根総理の訪韓と経済協力資金 40億ドル支援交渉を無事に成功させました.

中曽根前日本総理 : 政治、経済、文化、社会すべての分野で日本人たちを指導してくださった方です.

記者: 瀬島龍三氏は、韓日両国の保守右派たちが韓国にすまない心を持って、それなりに韓日関係に寄与したが、その人物のひとりと評価出来る方です。

しかし新しい歴史教科書を作る集まりを支援して、太平洋戦争は侵略戦争ではないと主張した本質は、日本帝国に充実な軍人だったという非難も少なくありません。

東京で MBCニュース ファンウェチンです.

http://imnews.imbc.com/replay/nwtoday/article/2065605_2711.html

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